ブログを書くという楽しみは、つまり「小説のような物語性」というところにある。

2018年9月4日書くということ

なぜ、ブログを書くのか。

その答えの一つには、ブログという場にはどこか「小説のような物語性」というものがあるように思えてなりません。

なぜ、ブログを書くのか?という問いに対する答えは、「なぜ人々は、文章を書くのか?」というものに対する答えにあります。

人々が、文章を書く理由。

それは別にノートに書いてもいいし、日記でもいいし、スマホのメモでもいい。

こうしてブログに書き綴ることも一つなのだけれど、その理由はきっと、自分なりの物語を求めているからだと思うのです。

人が1日を生きるということ。

そこには大きな物語が潜んでいます。

小説家の仕事は、日常にある風景から物語を紡ぐことですが、別に小説家でなくとも、文筆家でなくとも、そこに潜んでいる物語をすくい上げることは誰にだってできる。

人々は無意識的にしろ物語によって支えられ、また、人生という小説の1ページを、今、生きているわけですから、そこに物語を求めるというのは当然なわけです。

人々がなぜ、山に登った後には必ず自分の名前を刻むのか。

人類が初めて月に到着した時や、航海によりまだ見ぬ島を見つけ出した時だって同じなのです。

いや、自分の人生は単調な毎日の繰り返しだから、そこに物語なんてない。

という人だっていることでしょう。

単調な毎日の中に物語がないわけではなく、単調な毎日の中から物語を汲み取るだけの目がないということだと僕は思います。

村上春樹氏の小説だって、主人公はいたって平凡な、そして単調な日々を過ごしている。

そこにある規則性や確実さを確かに大事にしていて、それが主人公が主人公である所以であるわけです。

僕の友人に、物語を書いている人がいます。

まだ公には出されていないけれど、ずっと小説を書いているし、時々賞に応募もしているのですが、その人の書く物語を見せてもらった時に、すごくいいなあと思った。

それは、極めて平凡な日常が描かれているから。

短くてもいいのです。

例えば、暑い夏の日の朝に自宅を出て、最寄駅のホームまで歩く。

その道なりで、いつも見る人や、犬を連れて散歩をしている人と出会う。

こうして世界は作られていることを実感し、汗をかきながら電車に乗って、職場絵向かう。

僕には、この日常が壮大な物語に思えて仕方ないのですが、どうでしょうか。

あなたも、あなたの人生という物語の主人公なのですから。