コミュニケーションの前提が「相手が間違っている」であるという恐怖

2018年9月16日マネジメント・育成, 経営者向け

コンプレックスはそれなりにエネルギーになるけれど、それが「解消」の方向にいってしまうと、仕事が荒れるわけで。

自分の優秀さを誇示するために組織にいるのは、やっぱり違うと思うんです。

今日、僕らのチーム内での会議で出た話題で、旧態依然の組織において会議とは「部長のパフォーマンスの場」というものがありました。

会議の場が、「部長のパフォーマンスの場」に成り下がっているということです。

んな組織、ありえないでしょ。と思ったのですが、そしてそういう組織がある一定存在しているということは知っているのですが、

逆にそういうものを「よくないよね」と言いつつ、自分自身がそのような振る舞いをしている人や組織というのが、一番タチが悪いと思うんです。

僕はいま、すごく恵まれた場所に立っている。チームのメンバーや上司に感謝な訳ですが、そうでない人たちもいるんですよね。

「自分は大丈夫」と信じて疑わない思考こそ、怖さを孕んでいる。

どんな怖さかというと、自身を疑うことがないが故に、コミュニケーションの前提が「相手が間違っている」もしくは「相手がイケてない」になってしまうということ。

自分より若いから?経験が浅いから?

だから「使えない」といって切るような在り方というのは、僕はいやだなあと思うんです。

組織である以上、一定のラインでイグジットしてもらうことは絶対に必要。

それが新陳代謝を生むし、組織という構造は等価交換の仕組みだからです。

でもその場合は、あらゆる尺度で「組織があなたに期待するものと、あなたの能力値のパフォーマンスとして乖離があり、かつ、これ以上はきついよね」という明確なものがあって然るべきだと思うんですね。

愛がない組織は歪む

死とか時間の有限性に触れたことがない人が集まった組織というのは、間違った方向に進みます。

人の痛みがわからないから。

人の痛みがわからず、自分を優秀だと思い込んでいる人ほど、タチの悪いものはありません。

そして多くの場合、「自分は優秀ではないから」と言っている人に限って、本心では自分のことを優秀だと思っている。

経験や立場というのは、時に人を傷つけるんです。

そして、場合によっては人を死に追いやってしまう。

翻って。

僕は、時々怖くなります。自分自身の影響力が強くなるほどに、間違ったことをしていないかと。

僕の一言で、一つの判断で、何かを掛け違えてしまったが故に、何かが外れてしまうというのは、耐えられないと思う。