燃え殻さん、どうして「書く」の?【糸井重里×燃え殻】を読んで。

2018年9月23日書くということ

糸井重里さんと、燃え殻さんの対談を読みました。すごくよかった。

もともと「ほぼ日」という場所が好きで、今年Twitterで知った燃え殻さんという人が好きで、その対談がなんだかたまらない世界観を紡ぎ出していたので、つい。

特にこの第3回に描かれる世界や、言葉と言葉の間に差し込まれている行間が、すごくわかるなあと。

もともと、僕のこの『大人の少年で、僕はありたい。』というブログも、大人になりたい気持ちと、その中で忘れたくないココロと、そんな葛藤を書き綴る場所というところから来ているもので、大学時代を経て大人になっていくという等身大の僕を書いていこうというブログなんですね。

いま、感じていること、見えている景色を、等身大の僕で書いてありたいなと。

もちろんそこには「就活」や「仕事」の話もたくさんあるわけだけれど、根っこにある想いはそういうところなんですね。

生きてるという実在感

去年の10月に、僕はこういう記事を書きました。

ふと、この瞬間に僕の中でフラッシュバックして来たので。

僕の中のリアルというのは、圧倒的にここに凝縮されている。

結局は、「生きてる」という実在感を追い求め、それを何かに対比させ、投影させて初めて感じることができる「何か」があるのだと。

人がいて、集まる場があって、距離感があって、そこに温もりがあって。

それぞれの大切な人がいて、仕事があって、生きているというリアルがある。

でも、それぞれの中に隙間があって、そこに触れたり、時にはその隙間に自分自身が入り込んだりしながら、重みを感じたり、痛みを感じたりしながら、僕らは今を生きているんだと思うんです。

そんな、言葉にならないものだからこそ、必死に「何か」を追い求め、書き続けている。

そんな気がするんですね。

1年が経ちました

去年の10月に上のブログを書いた時には、全く想像していませんでしたが、その1月後。

去年の11月に、僕の父親が倒れたんです。東京で。

場合によっては死んでいてもおかしくなかった。最低でも生活に支障があるレベルで後遺症が残ると言われたにもかかわらず、たった数ヶ月で完全に社会復帰を果たしました。

数パーセントの確率だそうです。

あの出来事が、この1年の僕らのきっかけになっているのは間違い無いと思う。ただ、それが日々の中では感じれれないだけで、でも、どこか深いところで重しになっているような気がする。

日頃、あまり思い出すことはないのですが、なぜか今日はいろんなものが出て来ますね。

翻って、やっぱり隙間を描く言葉なり文章なりを紡ぐことができる人というのは、読み手の人生の深いところと共鳴するのだと思う。

深いところで繋がっているものがあって、そこに何らかのエネルギーが伝播するからこそ、圧倒的に多くの人に届くものがあるのだろうな。

何だか、まとまりのない文章になってしまいましたが、この辺で。

ありがとう。