書くことはつまり、ひとつの世界をつくることなのかもしれない。

2019年1月3日書くということ, 書評(という名の感想文)

今日(数時間前のこと)に公開した記事の中で、堀江貴文さんの著書を紹介しました。

その中で、佐渡島庸平(編集者 / (株)コルク代表)さんについても書いたのですが。

yuto.hatenadiary.jp

つい先ほど同じように佐渡島庸平さんについて紹介しているブログを読んで、すごく共感したので勝手ながら紹介させてもらえたらと。

hirocsakai.hateblo.jp

タイミング的にすごくドンピシャで、引きつけられたというのもあると思いますが。

やはりきちんと情報を自分で取りに行って、精査してその中からブログに書いて、ということを繰り返していると、感度のアンテナが尖っていくのかもしれない。

さて。

佐渡島さんは次のようなことを書いているらしい。

これからの時代、作家と共に作品を作る人は、編集者ではなく、コミュニティプロデューサーと呼ばれるような職種になる
ラボに参加する人達と僕も一緒に学ぶことで、コミュニティプロデューサーというものを定義していく。 (上記ブログより引用)

これはもう、本当にその通りだなあと共感します。

すごくないですか、これ。

コミュニティを作っていくひと。いわゆるプロデューサーとしてのビジネスが、次代を作っていくんですね。

書き手が書いた文章をただただ発信する、出版するということではなくて、それがひとつコミュニティをつくり出していくことになるんだと。

リアルな場としてのコミュニティもしかり、作家とファンをつなぐ場づくりもそう。ネットの中に生み出す「居心地のよい場所」(=「カフェ」のような場所)としての場づくりもそう。

僕も以前から「将来、本を書く」ということを繰り返しブログに書いて(あるいはリアルでも言って)いますが、もう少し広義的に見ると、結局は僕の書いたことあるいは僕自身というコンテンツ自体に共感してくれる人たちがいる。そこを目指しているんだろうなと、気づかされました。コミュニティを共有する、ということですね。

そのバックボーンになりうる言葉であり、文章であり、思考であり。それを発信し続けることをしたいし、今の僕にできることでもあるような気がする。

強固な文章の世界観や物語というのは、社会の骨格になるのだと思うんです。

直接的には、目には見えない。

見えないんだけれども、確実に僕らの内側を支えるものになっているんだと。

僕自身も、そんな「何か」を発信できる人になりたい。

いつも、ありがとう。