友人に綴った手紙の記録と、感情の記憶

2019年1月6日日々徒然

友人に書いた手紙。気づけば長くなってしまった手紙で、書き終わった後に、これは僕自身に当てた手紙でもあって、残しておこう。と、そんな風に思ったので、ここに書いておきますね。

返信が遅れてごめんなさい。色々と重なってしまっていた上に、僕自身が感情的に少し落ちていて、きちんと手紙に向き合えなかったので。 

 と書き始めています。実際、手紙を書くというのは、すごく楽しいものでありつつ、ものすごく体力を使うこと。こうして書くということもそうなんだけれど、特に手紙というのは誰かに対して言葉を書くというわけで、感情的に落ち込んでいる時には、なかなか書けなかったりします。

先日、あなたが書いてくれた言葉は、妙に心に残っています。なぜなら、それはあまりにも僕にとって痛い内容だったから。「結局、最後は孤独」と、(大切な人が)「結局、自分のことを傷つける(嫌いになる)」という2つは、僕の中でもすごく大きな感情なんですね。だから僕は、人ともう一歩踏み込んだところで関わるのが、すごく怖い。大切に思うほど、その人や居場所が失くなってしまうことが、怖いんです。 

あなたが手紙の最後に書いていた、「信頼とは、自分を守っている檻を取っ払い、生身の自分で相手に接すること」というのは、本当にその通りだと思います。そしてそれは、わかってはいるのだけれど、すごく難しい。

僕もこの十数年、人に対して心の壁を作って接してきた。一定レベルで信頼関係は作れるのだけれど、もう一歩は絶対に侵されないように、つまりは自分が傷つかないように、自分を守ってきたんです。

だからこそ「僕はドライな人だ」とか「僕は人を信じられない」などと言って、近くなりそうな人との距離を遠ざけようとするんですね。そしてそれはやっぱり、ものすごく孤独で、しんどい。誰にも本音を言えず、誰にも弱音を吐けず、相談せず、誰といてもひとりぼっちだから。その根っこにあるのは、やっぱり幼少期から今までの両親との関係なんだと思っています。

僕は今、と言ってもここ数ヶ月くらい、そのインナーチャイルドを含めた、過去の自分自身と向き合おうとしています。

怖がっている昔の自分とか、ちょっとした刺激で溢れ出す感情とか、いろんなものーそれは自分の中にあるものーと向き合おうとしている。すごく、痛い。痛いというのは、僕は別に今までのようにそれなりに行きて行くことはできるんだけれども、人と上辺だけで接していくこともできるんだけれども、それでも、人を信じてみたくなった。人を愛して、そして愛されて、自由に生きる方を選びたくなったんです。それが、痛いということ。

そのきっかけをくれたのは、やっぱり人でした。出会い。

愛に溢れて行きている人。いっぱい傷ついて、それでも誰かを愛そうとしている人。それでも人を信じようと決めたんだ、と。そんな風にいって、そして生きている人を見て、すごく、羨ましかった。いいな、って。僕もそんなふうに生きたいって、そう思いました。

「僕は、人を信じれないから」といって心の壁を作るんだけれども、そんなことはお構いなしに、その壁を乗り越えて、僕を信じて、愛情をくれて、いろんなものを預けてくる人がいるんです。人の心に入り込んできて、しめた窓を開けてくれて。最初はすごい戸惑ったけれども、気づいたら、外の景色がすごい綺麗で、もっとそれを見たくなったんです。それが、今の僕。だから、すごく痛いけれど、いろんなものをありのままで受け入れようとしている。時折、感情のフタがあいて自分でもびっくりするのだけれど。笑

と、まあ長々とよく分からないことを書いてしまったのですが。今の僕は、そんな気持ちを抱えつつ、周りにある世界の景色を見て生きています。もうちょっと時間はかかりそうですが。それでもきっと、本当に人を信じて、愛して、自分の人生を生きる。そんな愛に溢れた、優しい人でありたいです。うん。

いつもありがとう。出会いに感謝。

そんなふうに書いた手紙は、気づけば5枚に渡っていました。いつぶりだろう、これだけの手紙を一気に書き綴ったのは。前にもあったのだけれど。

大学の建物の片隅で、この言葉たちを紡いでいる自分自身の感情の記憶は、忘れずにありたい。

ありがとう。