本を書くということ。発信者という生き方。
僕はなんのために、こうして書くことをしているのだろう。
別に書くということをしなくとも、僕はそれなりに生きていくことができるはずなのに。
書くことの一つの理由は、いろんな世界を見たいからだろうと思う。理解不能なほどに複雑で、見たくないものがはびこる世界があったとしても、物悲しさを誘うほどに綺麗な夕焼けの先には、夜空に輝く月があって、そして必ず夜明けが来る。
物理法則のように、この自然の原理原則はとてもシンプルで、その因果関係を一つ一つ言葉にして紐解いていくことをしたい。その先に見る世界がなんなのか。僕はきっと、その先の世界を見たいからこそ、本を読み、人に触れ、社会を生き、そして書くことをしていきたいんだと思う。
音の不思議と同じように、言葉の世界と人間の想像力は、物理現象を超えるんだ。
僕は人生を通して、書くということで社会を見たいし、表現していきたい。
本を書き続けるという夢はあるけれど、それは手段であって、根っこのところにあるのは、探究心であり、そして生きた証を残したいという生存欲求であるんだと。
その生き方をしようと決めたのが大学に入る頃で、そしてその生き方は今後も変わらないとするならば、僕の人生を通して一つ大きな何かーーそれは、あらゆるものを包含しているものでありたいーーを残したいと思っていて、
そしてそれはただの要素としてではなく、例えば生きることであったり、愛であったり、人が営む商いであったり。そういった、あらゆるものを言葉にして残すということを、僕はしたいんです。
要素としてではなく、僕の人生を通して、あらゆることを表現したいんだと。
そういった意味では、僕は意外と野心家なのかもしれません。
<追伸>
上のように言葉を綴った後、一人の大切な友人からもらった言葉をきっかけに、そもそも僕はなんで「本」を「書く」というところにこだわっていたんだろうと。
なぜ、「本」でなければならなかったのか。
僕が、本を書いて生きていこう。と決めたのは、ちょうど大学に入る頃で、それまで僕が口にしていた夢は『発信者になりたい』というものでした。
ただ、当時の僕は幼く、もちろん今はもっと幼いんだけれども、そもそも何を発信したいのか、誰に発信したいのか。
いろんな人に投げかけられた、それらの問いに対する自分の答えを、まったく言語化できていなかった。
だからこそ、僕はいつしか「本を書きたい」ということを語るようになっていました。
そして、それが自分の夢だと、思い込んでいた。
もちろん、ここまでこだわって言葉にしているからこそ、本を書くということに対する要素は、僕の中の本当の夢とリンクしている。
リンクはしているんだけど、別に必ずしも本でなくて良くて、もっと広義の意味で、僕は発信者として生きたい。
そのことに、今日改めて気付かせてもらいました。
何を発信したいのかということは、今はまだわからない。きっと要素としては持っているのだと思うけれど、これを発信する!と言語化できるものは、まだなくて。
そして、僕はそれでいいと思っている。なぜならば、きちんと僕の土壌ができて、準備ができれば、自ずとそれは自分自身で答えを出せるようになっているんだと、そう思っています。
いま、ふと気づいたものを書き連ねるならば、一つは「自由に生きたいと願う人の声」であり、外には届かない「死にたくない、生きたい」と叫ぶ人の声なのかもしれないなと。
友人はそのことを「平和」なのでは、と言っていたけれど、それはもう少し考えることにしたい。
少なくとも、誰かの声を発信したくて、そしてそれは、このまま死んでしまうかもしれない、生きた証を残せないかもしれない、という葛藤に押しつぶされそうだった10代の自分自身。
そして、誰も信じることができず、日々、僕とともに死ぬことまで考え続けていたという、僕の母。
何か、そういった想いが根っこにあるはずなんです。
さらに付け加えるならば、人生こんなはずじゃなかった。俺はもっとやれたんだ。
という、自己葛藤を抱えながら生きている僕の父と、僕がそれまで出会ってきた、生きながらにして死んでいるように感じられる大人たち。
どういう形かはわからないけれど、そういったものも、僕の中の奥深くではつながっているような気もしています。
眠りかけた時に、ふと浮かんできた言葉を、綴りました。
時計はいま、夜中の4時を過ぎています。眠れるだろうか。
今日はいい1日だった。ありがとう。