教育で求められる「生きる力」とは何か。
僕はいま、大学で教職免許も取っています。
高校物理の教員免許。
教職科目を大学4年間学ぶ中で、ずっと一貫して言われてきた言葉が「生きる力」という言葉です。
いま、義務教育から高校教育まで一貫して、我が国では「生きる力」を育むことを目標に掲げています。
一方で、具体的な「生きる力」の定義や、それをどのように育んでいくのか、というのは、各学校に一任されているというのが現状です。
では、そもそも一体、生きる力とは何か?
「生きる力」とは「未知との出会いに対応できる力」のことだと僕は思います。
そのために、高校までの教育がある、と思っています。
要するに、一定水準以上のベースを積み上げることが、その先にある「未知との遭遇」に対応できる力を育むことになるんです。
社会に出て求められる勉強と、学校の勉強は全く土俵が違います。
スポーツでいうと、野球とサッカーくらい、全く別の競技。
大学入試までの勉強は、模範解答を覚える競争。
社会に出てからは、いかに模範解答から離れられるかという競争です。
社会に出てから遭遇する局面というのは、正しい答えなんて、誰もわからない。
そもそも答えがあるかもわからないし、いま取り組んでいる問題自体が間違っている可能性だってあるんですね。
だからこそ、わからない問題に直面した時に、答えがわからなくとも、答えを考え続ける力が求められる。
自分自身で問題を提議し、仮説を立ててアプローチを考え、答えを模索し続ける。
何回もPDCAサイクルを回し、間違っていたら新たに仮説を構築し、同じことをする。
そういった、未知との遭遇において自分自身で立ち向かっていく力が、「生きる力」だと僕は思います。
以上のようなことは、もちろん義務教育の範囲では教えてくれない。
学校という教育現場では、そもそもそれが求められているのかもわからない。
だからこそ、教育業界には外からの新たな風を入れる必要があるのだと思っています。
僕が教育実習を経験するまでに学んだ教職科目において、ずっと一貫して疑問に思っていたことは多々あります。
外から見ると、いかにおかしなことをやっているかがわかる。
例えば、生徒の評価基準に「関心・意欲・態度」という評価軸がある。
でも、小学生じゃあるまいし、高校生の「関心・意欲・態度」を、教師が一体どうやって評価することができるのか?
社会に出ると、全てが「結果」で計られるべきです。
少なくとも、一定水準以上の仕事においては、「努力」なんて当たり前。
「私としては頑張りましたが…」なんて口にしたらアウトです。永久追放。
社会の常識では、「努力」という言葉を口にしたらアウトなんですね。
プロとして、当たり前に「結果」を追求するべきだし、「結果」で評価されるべきなんです。
そういった社会の厳しさというか、当たり前のことを本気で高校生に伝えようと思うならば、例えば、
「高校生からは、それ以前の義務教育とは異なり、全てテストの点数のみで君たちの成績を評価したいと思う。課題の提出、授業中の発言は任意であり、君たちの自主性に任せるので、テストにおいて”結果”を出すことを追求しなさい。」
という教師がいてもいいのではないでしょうか。
少なくとも僕はそう思っています。
それが本当の意味で「生きる力」を育むことにつながるのではないでしょうか。
総じて、僕もそんな人間でありたいです。
ありがとう。