たくさんの「隠れ家」という居場所がある都会が好き

日々徒然

街がクリスマスムード絶頂の12月年末の三連休。

明日は休みという日曜日の深夜に僕は、ひとり近くのファミレスに来てこうしてパソコンを叩いている。

大阪市内にある24時間営業のファミレスと、最寄駅隣接のマクドナルドが僕の本拠地。ホームベース。

大阪の街はいい。程よく都会。僕から見える大阪という街は「大きなローカル」である。

職場が梅田にある僕は、梅田にほど近い大阪市内に住んでいて、僕のマンションは最寄駅から10分以上歩くけれど、それでもちょっと街を歩けばスーパーもコンビニも、ファミレスもマックもドラッグストアも、ご飯を食べれるやよい軒も餃子の王将もあって、生活には困らない。

僕が大学時代に東京でシェアハウスをしていたときにも思ったけれど、都会にはファミレスやカフェなどの「隠れ家」が多い。

そしてそれが、僕にとってはとてもとても心地よい。

***

僕はもともと人とかかわり合って生きるということが本質的に得意じゃなくて、幼い頃からほとんどずっとひとりぼっちだった。

小4から高校時代までサッカー部だったけれど、しかもその中でキャプテンをやっていたりもしたけれど、それでも部員とは必要最低限のことしか話さないし、練習後みんなでコンビニやファミレスに行くメンバーを尻目に、できるだけ早く一人になりたかった。

高校時代は給食ではなく弁当だったので、お昼時間はみんな各々のグループになって弁当を囲んで食べて、終わったらおしゃべりをする。
僕はそんな「10代にとって当たり前のような青春」の風景がすごく苦手で、1人、自分の机で母親の作ってくれた弁当を10分で食べ、「一人の場所」を求めて最上階の図書館へと通っていた。

そんな僕にも例外が一つだけあって、中学時代からの親友が別のクラスにいて、週に1回くらい、彼の気が向いたときにはふらっと僕の教室へとやってきた。

その時は2人で弁当を食べ、そして、語り合った。
その彼は1浪で早稲田大学へと進学をし、いまは東京で働いている。10代から今もなお続くほとんど唯一の友人。 

 

地方出身の人にしかわからないことだと思うけれど、実は地方というのは一人になれる場所が少ない。

必ずどこかしらの所属を求められる環境というのは、当時の僕にとってあまりにも苦痛で、そしてその環境要因がコンプレックスだった。

10代の少年僕にとってそのコンプレックスはあまりにも大きく、僕は都会の街での生活に焦がれるほどの憧れを抱いていた。

ひとりになれる場所がある

就職活動をすることに決めた僕は、当然のように東京に繰り出した。

シェアハウスの場所は川崎。活動の拠点は京浜東北線か東海道線沿い。

大学時代に何度か、上に書いた友人の家にお邪魔していたこともあったので、東京での生活に特段違和感はなかった。

その友人が住んでいた場所は高田馬場。
早稲田に通う彼が住む街は学生街で、そしてその世界は地元の野暮ったい国立大学に通う20歳そこらの僕にとっては、あまりにも輝いて見えた。

半分地元、半分東京で過ごした学生時代の後半だけれど、明確に感じた「居心地の良さ」というものが確かにあった。

それが、「ひとりになれる場所がある」ということ。

街には有り余る「隠れ家」があって、確かに人は多いのだけど、コミュニティがないからこそ、すごく心地よい距離感なのである。

他人に無関心な都会の街は、社会というシステムの中で生きる僕にとってはすごく居心地がよく、そしてとても刺激的だ。

 

社会人になって配属された部署は大阪。

初めての一人暮らし。全てのことが初めてで、戸惑いながらも、「大阪という都会さ」のあまりの居心地の良さに浸かって、次の4月で丸2年になる。

大阪という街は確かに東京とは違う。

「東京と大阪」という言葉があるけれど、この2つの街にはあまりにも明確な違いがあって、地方に住む当時の僕から見た景色とは違う。

大阪は大きな田舎。でも、やっぱり市内は都会だし、関西という街はあまりにもいろいろなことが「丁度良いサイズ」なのである。

市内にはほどんど「無い物は無い」という状態だし、情報も溢れている。

東京ほど人が多くなく、文化の最先端とは言えないところもあるけれど、その分人の暖かさもある。

そして僕が暮らしていく上で大切な「距離感」があるし、「ひとりになれる場所」も街には溢れている。

こうしてこのブログを書き綴っている今も、隣の席のカップルはほとんど無言でご飯を食べ続けているし、反対側ではサラリーマンらしきスーツを着た男性がとある女性に向けて一生懸命営業トークをしている。

向かい側では家族がご飯を食べているし、その向こう側ではおそらく学生であろう女性がイヤホンをしながら懸命に教科書に向き合っている。

ここには、いろいろな人間模様があって、その匂いや感触を確かめられる場所があるというのが、僕にとっては心地よい。

================

こういったブログを書く時は大抵、深夜で、そして大概僕は少しだけ感傷的になっていることが多い。

自分という存在が、社会というシステムの中に存在するというリアルな手触りがすごく大きくなって、その重さを抱えきれなくなってこういう文章を書かずにはいられなくなる。

都会にはどこか、そうさせる力があるように思える。

とりとめのない文章でごめんね、いつも読んでくださって、ありがとう。