日本の社会にはもっと、人生の余白という名の「考える時間」あってもいいと思う

思うこと

高校の卒業から7年。

僕の高校時代の友人が今週、念願だった医学部医学科に合格したとのことで、今朝、電話がかかってきました。すげー嬉しかった。

僕と同じ地方の高校出身で、医者になりたくて受験を重ねて浪人をし、2浪目でも医学部に受かることができず、滑り止めで出していた早稲田大学に進学をし、東京に行ったのが今から4年半前になります。

彼が東京に行ってからはなかなか会うことがなく、卒業前に一度、僕が就職先を決めた後に彼が帰省をしてあったのが、ちょうど2年くらい前の話。

彼は早稲田に行ってそれこそ都会の大学生活に馴染もうと頑張っていたし、1年間の留学に行き、帰ってきてからは就職を視野に入れながらも迷っていた。そんな悶々とした大学生活を過ごしていたのを僕は傍目に見ていました。

2年前に地元で会った時は、彼はまだ大学3年生でした。ちょうど今くらいの季節だったと思う。

「来年、4年生になるけれど、どこに進もうか迷っている。ゆってぃは、大学院に行くと思っていたけれど、就職を決めたんだね」

そんな会話をガストでした記憶が一気に蘇ってきます。

医師の多様性を確保する医学部編入試験

もともとはアメリカのドクター(医者)への考え方を参考にしたもので、日本でもここ10年くらい?
医学部以外の学部に在籍をしている人が、医学部に編入ができる試験のこと。僕も今日、彼から説明を受けてはじめて知りました。

アメリカのドクターは、そもそも何かしらの学位を持っていないと、そもそも医学部に入ることすらできないらしく(日本でいうと、医学部以外の4年生学部を卒業してはじめて医学部に入ることができるということ)、

高校まで勉強漬け、そのまま大学でも医学部に入って6年間勉強をし、医者になって病院で働くというのが基本の考え方にあった日本とはまた別の視点があるようで。

日本のドクターのキャリアでいうと、教師なんかと同じで、要はその世界しか知らないために、とても価値観が狭いままに社会に出てしまうということ。

彼が言っていたのは、欧米のドクターに求められる能力の一つに「患者(や家族)とのコミュニケーション」というものがあるらしく、いろんな価値観を持っている人間が医者になることを求められる。

だからこそ海外では、ストレートに医学部に入ることができない仕組みになっているらしいです。

僕の友人はいま、大学3年生です。1年留学をしているので、4年間の大学生活を通していろんなものを身につけて、そのバックボーンを持って医学部に編入をするわけで、日本の医学業界においても近年でそういう人の役割が大きくなりつつあるのだということ。

医学部
彼も5年後はドクターか・・嬉しい

夢に近づく友の存在は刺激になる

彼は早稲田生でありながらも医学部の勉強をし、今年、僕の地元の国立大学の医学部医学科に無事、転入合格を果たしました。来年の4月からその大学の医学部生として過ごすことになります。(僕の後輩になるわけですね。笑)

色々迷ったことと思います。

この1年半、僕自身が新たな環境にいる中で、なかなか連絡をしたり話をすることができなかったわけですが、その間に彼は彼なりに必死で自分の夢と現実と実力とやりたいことに向き合って、1歩、夢に向かって踏み出したことになります。

夢を「叶える」というよりは、むしろ夢に「近づく」という表現が正しいと思います。

そういう彼の存在はそれ自体で、僕の刺激になりますし、こうやって葛藤をして一つ踏み出した彼の人生経験は、僕の地元の高校生や大学生にとっても大きな価値なのではないでしょうか。

是非とも彼の経験を、いろんな人に伝えていって欲しいものです。

日本の社会は考える時間がないままに流されてしまう

高校を卒業し、大学に入って2年間全力でキャンパスライフを楽しんで、3年生になったらゼミで忙しくなって、気づけば周りが就職活動をしているからなんとなく就活を始めて、4年生になってその中の1社に受かったあとは最後の大学生活を楽しんで、就職をしたらそこから怒涛に働いて。

27歳で1度目の結婚ラッシュがきて、同級生たちが結婚をしていく中で「私たちもあれから10年経つね」なんて話をし、気づけば30歳になっていて、

そこから結婚をし、子供を産み、30代では引っ越してローンを組んで家を買って、気づけば40代になって子供のライフイベントが人生になって、50代になって子供が独立をし、自分のサラリーマン生活ももう直ぐ定年か。

と、40年間の流れ道の終点が見えてはじめて、「あれ、自分がやりたかったことって、なんだっけ?」と考えるわけです。

日本人の気質なのか、社会の仕組みなのかはわかりませんが(たぶん両方)、本当に自分がやりたいことを考えたり、そこに向き合ったり、あるいは調整をしたりする時間の余白(モラトリアム)がなかなかなくて、60代を目前にして初めてそれを考える、ということが普通に起こるのです。

10代や20代のうちに、人生のモラトリアムを持つというのはとても大切です。

それまで同世代の人たちとしか関わらなかったけれど、大人を見て、社会を見て、リアルを知って、人生を考えて、色々やってみて、合わなかったらもう一度考えてみて、そうやって少しずす自分のやりたいことを見出していく。

そういう社会の余白のようなものが必要だと思っていて、失敗を失敗として「ダメなやつ」とせずに「経験」とできて、サッカーでいうとどの場所からでもリスタートができる。

必ずしも親や教師や社会が全て正しいわけではないのです。

今日、僕は彼と電話で話をしながら、そんなことを考えていました。

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まとまりませんが、思い返してみると僕の10代後半は暗黒の時代で、そしてそれは僕の人生のモラトリアムとして、すごく重要なバッファだったのです。

これからの時代にきっと大切なのは、自分でその人生の余白を作り出すことだと思うのです。

消耗すると、いろんなものを見失ってしまう。自分の心の声さえも、聞こえなくなってしまうのです。

 

今日はいい1日でした。僕が出会う人たちは、素敵な人が多くて嬉しい。

今日も僕のブログを読んでくださって、ありがとう。