自分の内側にある本当の価値観とは 〜精神的な背骨を作り上げること〜
すごく考えさせられる記事を読みました。
大学の研究室の助教授である筆者から、卒業して行くとある研究生(おそらくは学部生)に向けてのメッセージを、ブログに書き綴ったものです。
研究生の彼は、卒業研究に苦しんだ。
その理由は、常に外部に「正解」を求めていってしまうから。
研究という、曖昧模糊なものに対して、外に対して「正解」を求める。本当は正解なんてないはずなのに。
その理由は、研究生の彼が、間違うことに対して恐怖を背負っているから。
自分自身の主張に対して、自分なりの論ではなく、あくまでも誰かの「保証」がなければならない。
筆者はそんな彼に対して、まだ「精神的な背骨」がないからだという。
精神的な背骨とは、価値の判断基準のこと。
その価値の判断基準を、自分の内側に持つことが、大切なのだと。研究生の彼が、自分自身の基準だと思っているものは、あくまでも外にあるもので、誰かが作ったもの。本当の意味で、自分自身の内側にあるものではないのだと。
精神的な背骨というのは、出会った人、読んだ本、経験したこと、言われた言葉。
色々なものが一つずつ積み重なってできるものなんです。
就活の記事などで何度も書きましたが、自分自身の価値観の礎となるのは、その大きなきっかけとなるのは、幼少期の環境要因です。幼少期の環境要因をベースに、20歳までの環境要因が積み重なって、その人自身の価値観を作る。
その上で、何か大きなきっかけがあったりすると、その方向性、向かうベクトルが変わったりもする。
僕の場合でいくと、そのほとんどは読んだ本です。
その価値観をベースに、10代の病気の経験や、圧倒的な孤独感が、僕の価値観を作り上げています。
そして、大学時代のある時期以降に出会った大人の言葉と人生。
色々なものが折り重なって、僕の中を通り過ぎていき、それらが重しとなって僕の中に存在している。
その確かさが、今の僕の価値であり、言うなれば精神的な背骨となっています。
僕がこの記事を読んで思わされたこと。
筆者が語りかけているメッセージは、すごくわかる。その通りだと思うからです。
そして同時に、筆者が「まだ、精神的な背骨がないかもしれない」という研究生の彼の立場も、痛いほどによくわかる。
僕自身のことを言われているような気がして、すごく痛い気持ちになりました。
僕自身、何かの価値観、判断軸、そして精神的な背骨というものを積み上げてきたと思っていますが、それらは実は、外にあるものではないのだろうか。
そんなことをまさに今、考えていたからです。
価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない
今、僕はわからないことが多すぎる。
大人の世界に対して、拒絶し、攻撃していない?と言われました。
そんなことはない。
でも、本当にそうだろうか?
行き場のない圧倒的なフラストレーションが、自分自身の中を駆け巡っています。
味わうという意味も、それが人間的な深みになるという意味も、僕にはよくわからない。
わからないことを言われ、その意味を問うと、教えてもらえず、それが余計に僕の何かをかき乱します。
もっと知りたいし、あちら側に行きたい。生き急いでいるといえば、そうなのかもしれないけれど、僕にはそれほど悠長にしていられる時間はないし、タイミングだからという言葉で終わるのは、嫌なんです。
いつか分かる、いつかできるようになる、というのは、少なくとも今の僕にとっては、我慢できません。子どもでしょうか?
筆者の文章の中に、このようなことが書いてありました。
価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。
その通りだと思う。すごく分かります。
僕は、発信者として、生きていきたい。文章で自分の経験や思いを表現し、それが誰かの心を揺さぶり、何かのきっかけとなってほしい。
傲慢といえば、そうかもしれないけれど、結局は自分自身の深みに入っていきたいだけなんです。
深く入り込んでいきたいし、その作業をし続けることで、見える世界があると思っていて。
そして自分自身の内側を照らすのは、自分自身の圧倒的な経験と、何かとの対比によるものだと思っていて、だから僕はこうして言葉を綴っているのだと思います。
ただ、やっぱり上の言葉は痛い。
僕は本当に、自分自身の内側にある価値観、判断基準をベースに、自分の考えや思いを外に問うているのだろうか?と。
筆者の文章は、以下のように続きます。
表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義だ。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。
だから、君がもし表現者になりたいのだとしたら、精神的な背骨を手に入れる必要がある。それはどんなものでも良い。私が君をどう思うかではなく、君が君をどう思うかそれが重要だ。君は私じゃないし、私は君じゃない。究極的には、私が君をどう思おうが君はそれに左右される筋合いはない。
僕が僕をどう思うかが大切。
分かっている。そんなことは、分かっているのだけれど。
だからこそ僕は、圧倒的な経験をしたい。
結局は、「今」この瞬間を全力でやるしかなくて。
いつかこの苦悩と、ずっと僕の内側にあるくすぶりが、何かに繋がるのでしょうか。
(2018年9月23日追伸)
1年前の記事を読み返していました。
上で書いていることは実社会でもまさしくそうで、仕事の中でたくさんの事例に出会うのですが、判断基準が自分の中にない人や組織は、それ以上進むことができません。
自分の中に「何もない」人たちは、社会に何かを問いかける表現者になることはありません。
自分の中にあるものを「正解」にしていく力が必要な時代だと思う。