このままではヤバいと思える経験をしよう。〜就職活動編〜
以前に、『このままではやばいと思える経験をしよう』という記事を書きました。
本当はその記事にいろいろな要素を書こうと思って書き始めたのですが、まずは大学での勉強、学問について書いているうちに、あっという間に膨れ上がってしまったので、別記事で続きを書きたいと思います。
一貫して、大学時代は「あ、俺はこのままではヤバいかもしれない・・」と思う経験をした方がいいと思う、という僕の主張は変わりません。
別にそれは勉強でも部活でもインターンシップでも、なんでもいいと思うのですが、ひとつその「あれ、何かが違うな」と違和感を感じることは、特に大学時代には有意義な経験なのではないかと思っています。
なぜかというと、それがひとつ、自分の成長のきっかけになるからです。
大学時代は、比較的ゆったりと時間が長れます。大学の4年間という空間は、社会の中ではわりと特殊な環境にあると思うので、なかなか自分だけでは気づきにくいことがあるんだと思うんです。
もちろん、もともと大学は社会的に「学問探求の場」を担っている場所なので、学問に集中するであったり、あるいは何かに打ち込んで見たり、はたまたゆっくりと4年間を過ごす場所としては、すごく良いものだとも思っているのだけれど。
そんな中で、「あれ、もしかしたら俺は、このままではヤバいかもしれないぞ。」と思える経験がひとつでもできれば、それはすごく財産になります。僕の場合は、そうでした。
僕の場合はといって、とても個人的な話をしているので、それが一般論ではありませんが、まあこのブログには僕の経験を書く以外にはできないので、そういう前提で読んでもらえたら、と思います。
就職活動という社会と接するきっかけ
先ほど、大学という時間と空間は、社会とはある程度の距離にあるということを書きました。
それは良い意味でも悪い意味でも両方の側面があると思っていて、良い意味でいうと、ぶっちゃけ大学生はなんでもできる、ということです。
法律を犯すという一線さえ超えなければ、これほど自由な時間を手にしているのは珍しいですし、仮にどんなことをしても、大学という場所、そして大学生という肩書きが、ある意味その人の社会的なセーフティネットになってくれます。それは本当の話です。
大学生という名前自体に価値があるのかどうかという議論は置いておき、リアルとして多くの人にとって大学生という立場は、すごく強いし、便利であることは間違いない。
大学生がやっていることと同じことを、例えば大学生という立場を持たない20歳の人がしたときと比較すると、その社会的な意味や責任というものは、大きく変わってきます。
この言葉の意味は、わかる人にはものすごくわかるものだと思っている。
それ自体が良いか悪いかというものではないのだけれど、自由をある程度守られた立場であることは、事実だと思います。
その大学生が、ほとんど初めてと言ってもいいと思うのですが、社会と接する初めての機会が”就職活動”です。
まあ実際はアルバイトであったり、多様な活動が手軽にできる時代なので、必ずしもそうとは限らないとは思うのですが、それでも初めて「社会からシビアに自分自身を評価される」というのは、多くの人にとって就活が初めての機会だと思うんです。
それまで生きてきた22年なりを評価される機会というのは、実はそれ以外にはあまりない。それが今の日本の社会的な仕組みです。
これもまた、それが良いのかどうかという議論は置いておき、今の社会ではそうであることは事実で、そしてその就職活動の機会がひとつ、大学生にとって「このままではヤバい」と思えるリアルな経験なんですね。
僕の話をすると、やっぱり僕もこの就職活動という仕組みに違和感を持ちつつも、その中でいかにもそれに適応するように、この仕組みの中に足を踏み入れていきました。
そしてそれは、僕自身の23年間の中で、大きく成長するきっかけでもあった。
「あ、僕はこのままではヤバいな」と、本気で思えたきっかけがひとつ、僕の場合は就活だったということです。
何がヤバいのかって、別に同世代の人と比較してとか、そういうことではない。
自分の力不足とかを感じたりしたのは事実ですが、まあそれもそこまでのものではない。
就活をして「ヤバい」と思えるものは、大きく2つあると思っていて、1つは「本気で自分の人生を考えるきっかけ」だということ、もう1つは「世の中について、知らないことがありすぎる」ということです。
僕の場合でいくと、まあ両方あるのですが、特に2つ目のものが大きかったです。
まず1つ目の「本気で人生を考えるきっかけ」に関してですが、意外と多くの人は、自分自身の人生というものを、軽く見ている。
軽く見ているは言い過ぎかもしれませんが、本当に真剣になって、自分の今と、将来を考えている人というのは、そんなに多くはない。
これは僕自身がインターンシップをしたり、就活をしたりして多くの就活生に触れたときに思ったことです。少なくとも就職活動が、初めて自分の人生を考えるきっかけだという人はものすごく多くて、それはもうほとんどの人がそうなんじゃないかと思うんです。
だからこそ就活にはいろんな人生のドラマがあるし、そんな人間模様と感情が圧縮されている。
どういうことかというと、なんで他人に言われた人生を選択しようとする人が、これほどまでに多いのかということなんです。
親に言われたから。教師に言われたから。先輩がこうしてきたから。周りがこうしているから。
なんでそんな理由で、じゃあ私も。って自分の人生を決めようとするんですか。
あなたの人生は、あなたのものじゃないんですか?と言いたい。
別にいいですよ。その人自身がそれでいいなら、誰も構いません。
でも、ちょっと周りを見渡してみると、よく分からないことを並べて、被害者だと思って生きている大人たちが、こんなにいるじゃないですか。僕は物心ついた時から、それが本当に不思議だった。どうしてこの人たちは、自分の人生を自分で決めようとしないんだろう、って。
その人なりの状況もある。時代も背景も、それぞれに背負うものがある。それはわかります。
だからどうこう言うわけではないんです。ただ、本当に後悔しない人生を送ってほしいと思うし、まず僕自身が、そんな人生を送りたい。それだけなんです。
社会は明らかに、仕組みを作る側とそれを知らずにいる側が存在する
そしてもうひとつ。僕は就活をして、明らかにこれはヤバいな、と思ったこと。
それは、社会の広さです。僕らはまだまだ、知らないことがたくさんあって、知らない世界がたくさんある。
そしてその社会というのは、少なくともその一部分の社会においては、仕組みを作る側に立っている人がいるということです。
もう一方の側にいるのは、作られた仕組みを理解してその上で生きている人ではない。その多くは、そういったことすら知らないままに、ある限定的な社会の中で生きている人です。
そしてヤバいなと思ったのは、そのどこまでも圧倒的な格差が存在することを知らず、自分でわかった気になって生きてきたという自分自身についてでした。
もちろん、たかが23年の人生です。僕が見たのは、ほんの一側面にすぎないもので、まだまだ知らない、あちら側が存在する。
それに気づいて、だからこそヤバいな、と思ったことが僕の大きな気づきだったんです。
これは就活に限ったことではない。
どんな社会にも、必ず格差がある。そしてそれは、見ようと思わなければ見えない、認識を忘れていってしまうように、うまく存在しています。
僕らはもっと、いろんなものをちゃんと「観る」ことをしないといけないと思いました。
いろんな社会が存在する。
そして僕らは、その全ての社会を見ることは多分無理だし、大抵は一つかそこらの社会の中で生きているはずです。
それを知って、自分で考えて、選択して生きることをしよう。と、そんな風に僕は思います。
長くなってしまいましたが、ここまで書いてきて、当初書こうと思っていた内容とは全くかけ離れた壮大な話になってしまった。笑
書いているうちにいつのまにか、遠くにきてしまいましたが、僕の本音です。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
<追伸>
つい先日、友人と話をしたことでもあるのですが。
これから先の時代、本当に「自分の好きなこと」でしか仕事をすることができない時代になってくるのだろうと。
それは、近い将来に本当にその時代になるんだと思うんです。
同時に、本当に物事や社会を俯瞰的に見る、あるいは見ようと思っている人しか、気づけないものが溢れる。そんな、今よりもより二極化した社会になるのでは、と。
だからこそ、より本気で自分の人生を考えるきっかけというのが、大切なんじゃないかと思いつつ、じゃあどうすればいいのか?という問いに対する明確な答えはないまま、このブログを綴っています。
ひとつでも”自分なりの”何かが掴めたらいいいなと。そんな風に思っています。