人生の中で過ぎ去って来た時間というのは、時にとても輝くものであり、そして時にとても儚いものでもある。
たとえそれが30年などという時間であったとしても。あるいは、その倍の時間であったとしても。
僕の人生を振り返ってみても、振り返るとそこには23年もの月日が積み上げられている。一瞬一瞬は長く、果てしなく感じられる時間であっても、過ぎ去ってみればそれらの時間は僕の中で、均等に「過去」として並べられているみたいだ。
ましてやそれが10年単位の時間であるならば、10年という月日に括られた一瞬のように、気づけばあっという間に過ぎ去ってしまう。そんな気さえしてくるんだ。
今日は、どうやら眠れそうにない。
急に冷え込んだ冷たさを身体が敏感に感じ取ったようで、久しぶりに風邪を引いた。今までどれほどシビアに動き続けていても、いや、だからこそなのだろうか、体調を崩すということはなかったのに。
走り続けていないと、止まってしまう何かのようなものなのかもしれない。皮肉なことだなんてことを考えつつ、風邪薬の副作用で頭がぼうっとしている。
たった数ヶ月しか経っていないのに。もうしばらくの間は、その景色を目にすることはないと思っていたのだけれども。こんなにも早く、またあの場所に足を運ぶことになるなんて、考えてもみなかった。やっぱり時間というのは、不思議なものだ。そして、その時間というものは、儚い。
僕の人生の中で、時間の感覚が明確に変わった瞬間があるのだけれども、それ以来、目にするもの全てが、それまでとは違って見えて。
僕自身の持てる全ての感覚が変わっていくことを実感する中で、今を生きることの大切さと、感じる時間というのは一瞬一瞬の積み重ねであって、それ以上でもそれ以下でもないということを感じるようになった。
数学に、数直線という考え方がある。
0という基準があって、右にまっすぐ伸びて行く。1、2、3・・・と、数字は永遠に続いていく。
その直線は左側にも伸びていて、−1、-2、-3・・・という風に、同じようにずっと伸びている。
人間が生み出した数直線というものは偉大な功績だと思うのだけれども、これを一度(ひとたび)「時間」の流れとして理解しようとすると、そこにはいささか無理が生じてくるような気がする。
少なくとも多くの人々は、この数直線のように「時間」というものを理解していて、そしてそれまでの僕自身も、そうだったのだけれども。
否、そもそも普通の人間は、時間の流れというものを意識したりはしない。僕がそうだったように、そして。
ある時々、ふと立ち止まってみて、それまで過ぎ去って来た時間というものを振り返って、手にとってみる。ひとつひとつの想い出を確かめるように、驚くように。
そしてまた、一晩眠って翌朝目をさますと、昨日手にとって確かめたものなんて忘れてしまったかのように、日々の流れに身を任せて毎日を過ごして行く。
「今を生きる」ことの大切さは、古今東西と語られてきたのだけれど、そして今もなお、その言葉を語る人は多いのだけれども、本当の意味でそれを理解している人というのは、どのくらいいるのだろう。
つまりは、本当に、今この瞬間を、後悔のないように生きているということ。
時間の一瞬一瞬を、それ以上ないものだとして、生きているということ。
僕があの時、そう思ったのも束の間。気づけば、まるで昨日のような今日を過ごしてきたんだ。少なくとも、多くの場合はそれを忘れて生きてしまったような気がする。
今日は、どうやら眠れそうにない。明日は早い。
小説でも読んで過ごそうか。それとも。
言葉がうまく見つからないのだけれども、そんな夜はいままでにだっていくらでもあったのだから。
だからこうして、夜中にひとり自分の部屋にこもって、とりとめのない言葉を綴っている。
時計は0時を過ぎている。眠れるだろうか。
おやすみなさい。