お茶会の記録。Part2.
以前(先週くらい)に、お茶会をして、そのことをブログに書いたのですが。
今日は、そのお茶会の続きを。お茶会Part2.です。
お茶を飲むというわけではないのだけれど。笑
とあるカフェで、大好きな人たち3人(僕を入れて4人)とお話と勉強会をして、そのままご飯を食べに行って。ドライブにも行った。
そんな楽しい時間を過ごすことができたので、眠る前にブログに書きたいなと思い、深夜1時を回るところですが、帰ってきてシャワーを浴びた後に、パソコンに向かっています。
なんの勉強会をしたかというと、「生き方」のはなし。
つまり、自分自身が生きたいように、自分の人生を生きるために、ということを考えるということ。
自分の人生を、主人公として生きるということですね。
そのために、まずは自分自身のことを知って、考える。
そこから、相手との関係も、きちんと考えること。
自分の人生を主人公として生きるということは、すごく素敵なことだと思うんです。
すごくシンプルで簡単なようなことに思えて、実は、そんなに簡単なことではないように見えたりもする。
なぜなら、多くの人は自分の人生を主人公としては生きていない。傍観者として、他人の人生を生きている。
少なくとも、今までの僕の目には、そんな大人がたくさんいるように思えて。
否、大人だけじゃない。学生だって、同じです。
あなたは、誰の人生を生きているの?と言いたくなるような人は、同世代にだってたくさんいます。
ちゃんと、自分のことを大切にすること。
少し前に書いたブログには、僕のそんな想いが綴られています。
いろんな話をして、もちろんたった1時間や2時間では終わらなくて、夕方にそのままピザを食べに。
ピザって、ひとつの輪っかのものを、みんなで分けて食べるじゃないですか。
今日なら4人。ひとつ90度のピザに切り分けて、食べる。
みんなでひとつの円卓を囲んで、ひとつのものを食べるみたいで、すごく暖かい気持ちになるんです。団欒だなぁって。
そんな暖かい時間を過ごせる仲間に、感謝です。ほんとうに、ありがとう。
ひとつのテーブルを囲んでの食事のあたたかさ
僕の話をすると、僕は3人家族です。父と母と、僕。
僕は一人っ子です。
ふと思い返してみると、最後に家族3人で食卓を囲んでご飯を食べたのは、いつだろうと。
いつしか僕ら家族は、家族全員で食卓を囲むという習慣は、なくなっていました。
多分それは、僕が幼い頃、小学校に上がってしばらくした頃にはもう、その暖かさというものはなくなっていたはずです。
そのあとももちろん、何かしらのイベントーー家族にとってのイベントということ。親戚で集まるとかーーがあった時に、食卓を囲むということはあったのだけれども、日常的に家族で夕飯を食べたりするということは、もはやありませんでした。
僕はいつしか、そのあたたかさを求めていたのかもしれない。
気づけば僕は、タイミングが合えばたまに母親と食事をすることはあっても、基本的にはご飯を一人で食べるようになっていました。
そうしようと思ったとか、きっかけがあったとか、そういうことではないのだけれど、気付いた時には僕はすでに、ご飯はひとりで食べるという習慣が身についていて。
今思い返すと、暖かさを求めていたことの裏返しかもしれない。
きっとあの頃の僕は、今よりももっとひたむきに、真っ直ぐなままに、自分の居場所と、そして人のあたたかさを求めていたんだと思うんです。
家族3人で外出をするということも、ほとんどなかった。
幼少期の思い出はあるのだけれども、それも決まって出先ではいつも、必ずと言っていいほど大喧嘩をしていた。
僕が、ではない。父と母が、です。
根本的に合わない2人だったのだろうなと。僕はいつしか、家族の中に居場所というものがなくなっていきました。ゆっくり、ゆっくりと。それはまるで、自分という存在がどんどんと薄くなっていき、地下に吸い込まれていくような、そんな感覚でした。
居場所はいつも、自分の中にあった
僕は10代の頃、いつも見えない「何か」と闘っていました。
それが一体なんだったのかは、今となってもよくわからないけれど。
そして僕は気づけば、大学生になっていました。
自分の中の奥深くにあるその「何か」から目を背けながら。
僕が、こうして誰かとご飯を食べにいくようになったというのは、本当に最近のことです。
大学に入った頃は、全くと言っていいほどそんなことはなかったし、毛嫌いすらしていた。
少なくとも今のように複数人でご飯に行くこと。その温もりに直に触れられるようになったのは、今年くらいからのことです。
何もご飯に限ったことではないのだけれど、僕の居場所はいつも、僕自身の中にあったんです。それ以外には、なかった。きっとあの頃の僕は、ずっとそれを必死に追い求めていたのだけれど。
初めて僕が、人ではなく場所で、すごく居心地の良い居場所だと初めて感じたのは、僕がこの1年ちょっとインターンシップで関わった場でした。
それが僕の人生の中で、初めてできた居場所だった。
それまで大学という場所に感じていたのは、もちろん大学も図書館も居場所だったのだけれども、それはどちらかというと、それ以外の場所から逃げるための場所であったんですね。
この感覚というのは、言葉にするのは少し難しいのですが。
そして今年に入って僕は、誰かとの関係の中で、つまりは人とのつながりの中で、その中に僕の居場所ができる感覚というのを知りました。
それは僕自身の人生の中で、初めてのこと、初めての経験でした。
その居心地の良さだったり、やさしさだったり、温もりだったり。
それらに触れて、ゆっくりと僕の中で、それまでの十数年で凍っていた何かが溶けて行くような、そんな感覚を覚えていきました。
あまりに大事すぎで、近づきすぎるのが怖くて、逃げようとしていた時期もあります。
見たくなくて、触れたくなくて、そしてそれはきっと同時に、その大切なもの、大切な人を失ってしまうという怖さを持っていた。
すごく、怖かった。
泣きそうなくらい、怖かったんです。
僕自身に、そんな感情があったんだということに、初めて気づくことができました。
感情は、何かに触れて初めて実際に揺れ動くんです。
そして揺れ動いて初めて、その存在を知ることになるのだと。
その時僕は初めて、それに気づくことができました。
時計は、もうしばらくすると2時を回ろうとしている。
気づけばこんなにたくさんのことを書いていた。。
やっぱり夜中に文章を書くと、その先にどこに向かうのか、自分でもわからなくなってきます。
ほんとうに、いい1日だった。
その温もりを大事にしつつ、おやすみなさい。
ありがとう。