勉強するというのは、人生の選択肢を増やすということ。〜あの頃の自分に、勉強の楽しさを伝えよう〜
素敵な言葉に出会いました。
『あの頃の自分に、勉強の楽しさを伝えよう』
という言葉。とある塾の、フライヤーに書かれているボディコピーの一文です。
『なぜ勉強するのか?』
という問いは、あの頃も、そして今もなお、誰しもが持っているものだと思っていて。
勉強することも、もちろんしないことも、それはどっちでもいいことで、そしてその選択は個人の自由です。心から僕はそう思っています。
中学や高校時代までの義務教育においても、勉強をするのは、個人の自由。やりたいなら、やればいいし、そうでないならば、やらなければいい。
僕は極論、いまの日本の学校というシステムに対しても、いろいろ思うことがあって。それは僕自身が、明らかに学校教育には適していなかったから。否、あのシステムに適している人なんて、いるんだろうか、、というのがずっと持っている僕の疑問です。
もちろん、いるんだろうけども、圧倒的少数派なんじゃないだろうかと。だって、あの教育システムというのは、あくまでも仕組みを作る側のメリットであって、教育を受ける側のほうを見た仕組みではない。
言い切りました。
こういうことを書くと、またいろいろ反論されたりもするんだろうけども、僕が本音で思っていることだから、しょうがない。
あの学校教育の場というのは、教師の権利や立場を守るために、あの仕組みが成り立っている。少なくとも10代の僕には、そう見えて仕方がありませんでした。
(一応、大学で4年間教職を学んだこと、現代の日本の教育システムができた成り立ちとその背景、そして今の仕組みに行き着いたということを一通り学んだ、という前提の上で、思うことを書いています。)
だって、明らかにこの人から習うのっておかしいよね、っていう先生ばかりだと。小中高と、ずっとその違和感というか、純粋な疑問を持って僕は育ってきました。なんで、この人たちに、こんなに偉そうにされなきゃいけないんだろう?って。大人ってかっこ悪いなーって。
だからこそ、今となっては申し訳ないことを言っているなと思うのですが、「僕はあなたのいうことは聞きたくない。だって、そもそも先生は僕らのことを考えているわけじゃないですよね?自分の立場を誇示したいだけで、そういう言動をするのは、どう考えてもおかしいですよね」とか言っていました。
いま考えたら、ぞっとする。笑
小学校の時ですら、「先生は僕らに勉強をしなさいっていうけれど、先生は勉強していないじゃないですか。おかしくない?」とか思っていたし(直接言ったこともあるwごめんなさい)、
「夢を持ちなさい、そうすれば叶うっていうけれど、親を含めて、大人たちの夢ってこれだったの?」とか、挙げ句の果てに「頑張らないと、人生がダメになるよっていうわりに、あなたたちは頑張ってこれ?しょぼくない?」と思っていました。。
ものすごーく嫌な子どもだなと、申し訳なさでいっぱいになりますが。ほんとに。でも、小学生からずっと、その疑問を持ち続けて大人を見ていたことが、社会とか自分の生き方について、いろいろ考えるきっかけになりました。(今となってはもう時効だと思っているから、書いています。ごめんなさい)
一方で、僕はずっと優等生タイプ(タイプ!です)で生きてきたという事実もある。小中高と、ずっとです。そしていつのまにか、周りの期待が自分の生き方だとすり替えている自分がいて、逆にそれ以外に自分の存在価値を認めるための方法が、わかりませんでした。ずっと、見えない何かに縛られながら生きていた。
いま、こうして自分の人生を生きるという選択をしていること、少なくともその人生を選択しようとしていることは、以前の自分と比べるとすごく驚くことだったりします。
勉強するというのは、人生の選択肢を増やすということ
なぜ、勉強するのか。
今までの自分のことを振り返ってみて、そして今の僕の立場として思う、僕なりの答えは、「勉強することは、人生の選択肢を増やすということ」です。
勉強というのは、何も学校の勉強のことだけを言っているわけではない。
例えば、人生におけるすごく大きな勉強のひとつに「読書」があります。
幼少期から、周りを本に囲まれて育った人は、自ら本を手にとって読むという習慣が身につくし、それなりの知性という面での頭の良さが身につきます。
それは、いわゆる知識という側面においてもそうだけれども、それよりも「自ら学ぶ」という姿勢になるのが大きいと思っていて。
わからないことや知らないことに出会ったら、自分で考える。調べてみる。誰かと話してみる。そしてまた考える。
いろんなものに興味を持ってみたり、逆にその中で自分がピンときたものや好きなものを、とことん掘り下げてみたり。
そうやって自分の内側を豊かにしていくことが、勉強なのではないでしょうか。
そしてそれは、確実に自分の人生の選択肢を増やすことにつながっています。
それは、ひとえに役に立たないことも多く含んでいるかもしれない。でも、どんな勉強、どんな学問でもこの世の中であったり、社会であったりその背景であったり、そういったいわゆる原理や原則というものを学ぶことでつながっているのですから、最初から最後まで全く必要がないということは、ない。
僕が専門で学んでいる物理学という学問でもそうです。こんなものを知っていたところで、日常生活にすごく役立つかというと、いくら物理学科の学生である僕でも、そんなことは言えません。
一方で、やっぱり物理を学んでいると、生活が豊かになることはある。少なくとも自然科学というのは、日常の現象を相手にした学問なのですから。
いわゆる普通の生活を送るうえで、自然科学を多少知っている上で普通の生活を送るのと、そうでない場合とでは、見える景色が全く違うんです。論理的に物事が見えるという面でも、そうかもしれない。それが選択肢ということです。
これは、いい例えかどうかはわかりませんが、お金の話と一緒だと思っていて。例えば、財布に500円しか入っていない人と、財布に自由に使える1万円が入っている人がいたとして、同じ500円のアイスカフェモカを頼んだとします。
(実際僕はいま、朝のカフェでひとり、そのアイスカフェモカを飲みながらこのブログを綴っています。)
僕は、500円しかないから500円のカフェモカを頼んだわけではなくて、このカフェモカが飲みたい、特に朝早いから美味しいコーヒーが飲みたい、と思って、わざわざお気に入りのカフェに足を運んで、数多くのメニューの中からこのカフェモカを頼んでいるわけです。
別に、このカフェじゃなくてもいいわけですし、カフェモカじゃなくてもいいわけです。
仮に僕が朝ごはんを食べたいと思ったら、コーヒーが付いて来る朝ごはんセットのお店に行って、1000円のモーニングを頼んでおかわり自由の美味しいホットコーヒーを頼むことだってできたわけです。あるいは、朝ごはんは抜きにして、お昼にちょっとおしゃれなお店に行って、朝ごはんとお昼ご飯を一緒にステーキセットを頼むことだって、できたわけです。
でも僕は、いろんな選択肢の中から、自分が今これだ!と思った選択をして、いまここにいるわけです。ちょっと極端な例ですが、それが、本当に好きなことで生きるということだと思うんです。
勉強をするということは、結局は自分で人生を選択するためのひとつのきっかけになる。僕は、そんなことを考えて今まで勉強をしてきたわけではないけれど、大学生という今の立場になって振り返ってみて初めて、そのことに気づくことができました。
就職活動だって、そうです。今の日本の就活の形がどうだという議論は置いておき、就活の入り口のところでは、いわゆる「学力」で確実なふるい分けがされていることは事実なわけで。
別に僕は今まで、就活のために学校の勉強をやってきたわけではない。けれど、学校の勉強をきちんと積み重ねてきたことで、結果的に就活において色々な選択肢を手にいれることができました。
あの頃の自分に、勉強の楽しさを伝えよう
だからこそ、冒頭の塾のコピーのことを考えてみるんです。
あの頃の自分に、勉強の楽しさを伝えよう、と。
上にいろいろ書いたけれども、結局、勉強をする一番の理由は、勉強が楽しいから。そして、勉強した方が人生が楽しいから。ということなんだと思います。
ぶっちゃけ、理由は後付けでいい。
正直、勉強なんて、してもしなくても、どっちでもいいこと。だって、勉強なんてしなくても、生きていけるわけです。
でも、それでもついやっちゃうこと、例えば僕がこうしてブログを書くことも勉強だし、日々本を読むことだって勉強です。それらは、好きだからやっている。それ以上でも、それ以下でもないんです。そしてそれ以外の理由は、後付けの理由だし、それでいいんだと僕は思っています。
大人になったら、子どもたちには、こう伝えたい。
ぶっちゃけ、勉強した方が楽しいよ
って。
ここまで読んでくださって、ありがとう。
<追伸>
やっぱり、朝早くにカフェに行く土曜日というのは、いいものです。
<追伸の追伸>
社会人2年目の今、ひょんなきっかけで夜中にこの記事を読んでいますが、その通りだと思う。
「ぶっちゃけ、勉強した方が楽しいよ」と胸を張って言える大人になっているのだろうか。