人が生きていく力、その根っこにあるのは、青春時代の怨念
青春時代というのは、春の時代ではない。
むしろ、寒くて、暗くて、それでいて孤独な冬の時代。
そんな青春時代があってもいいのではないだろうか。
大学時代は、人生の夏休みだと言われるけれど、人生自体を夏休みのように過ごすために、大学時代は悶々と過ごす時代であってもいいのではないだろうか。
これは、僕が10代後半の頃から、大学に入ったあと、割と最近までずっと考えていたことです。
そのベースとなる考え方は今でも大きくは変わってはいなくて、その中で、ある時からいろんな人に会うことができ、そして素敵な出会いを少しずつ重ねていくことで、その刺々しさが薄れていきました。
人が生きていく力。
その根っこにあるのは、青春時代の怨念なんです。
怨念というのは、人を恨むこととか、そういう”悪の感情”ではなくて、どちらかというと、自分自身と社会との葛藤の間で揺れる、”負の感情”のことだったりします。僕の場合は、そうだった。
何者にもなれない自分自身と、高い理想と、厳しい現実が目の前にはあって、一方でいろんな大人が自分のことを棚に上げて好き勝手言っているわけです。
僕は10代の頃、いま生きているこの社会が歪んで見え、その社会を作り出している大人たちに不信感しか抱いていませんでした。
そして、僕はこのどうにもならない社会を、どうにかしたいんだと。自分という人間を、自分たらしめる価値を作りたい。自由に生きられる社会。
当時の僕は、そんな葛藤を常に抱えて生きていました。
もちろん、今となっては、当時の自分自身に対して、何を言ってたんだろう。じゃあ、自分は来年から社会に足を踏み出す大人として、どうなんだ。そんなことを考えると、まだまだ未熟だなと思うことだらけなわけですが。でも、今のそんな僕自身を受け入れたいと思うし、過去、そんなふうに思っていた僕自身も、受け入れてあげたい。
実際に、10代の頃に抱いていた想いであったり、自身が成長したいと渇望すること自体が、その当時の僕の内側を作っているものであって、そしてそれがいまの僕の生きる力になっているのだなと。
誰しも、そういった経験はあるはずです。
親、教師、社会。
何かに対して不信感を抱き、何度も挑戦したけれどうまくいかず、諦めかけたけれど、それでも諦めきれない何かがあって、葛藤があって、そしていまに繋がっている。
そういう経験が大きいほど、人は大きくなれるのだと僕は思っています。
いまの僕は、渇望という乾きと、暖かさ優しさという潤いを、同時に手の中に持って生きています。
人間は、渇望しなくなった瞬間に、生きる意味を見失ってしまう。
同時に、人間は、優しさをなくした瞬間に、生きる価値を見失ってしまう。
少し前の僕はそんな風に思っていたのだけれど。今はまだ、答えはわからない。考え続けていくんだと思っています。
同時に、そんな自分を、あるがままに受け入れてあげることも必要なんだなと、思っています。今日この頃。
常に自己との対話の中での葛藤を抱えつつ、優しさを持った人間でありたいです。
<追伸>
「優しくあるために、強くあれ」
僕が大学時代に出会った偉大なる先輩の言葉は、僕の大きな指針となっています。
<追伸の追伸>
それでも僕は、やっぱり愛のある人間になりたい。
「愛のある、優しい人になりたいな。」と、僕は言った。
「愛がない人だったら、いま、こんな風に生きてはいないでしょ」と返された言葉。心に刺さったままです。ずっと、そうありたいな。
<追伸×3>
「いや、逆か。。」と。そう呟いた時に、「愛のない、ドライな人間になりたいんだね」と返された言葉も、忘れられないもの。どこまでいっても、素直になれない自分がいて。
夜の大学で、とりとめのない文章を書き綴っています。