自分の中に辞書を作る時代が、大学時代。

2019年1月6日大学時代

大学時代に、僕がひとつひとつ大切にして積み上げてきたことの中に、自分の中に辞書を作り上げるということがあります。

これはたくさんの知識をインストールしていくということではなくて、ひとつひとつの言葉の定義を、自分なりに積み重ねていくということ。

普段使っている言葉のひとつひとつを、自分の中に取り込んでみて、その背景とか、ストーリーとか、いろんなものを複合的に考えてみて、自分なりの定義を作り上げていく作業です。

当たり前だと思っていたことは、実は当たり前なんかではありません。

僕らが当たり前のように使っている言葉の意味を、自分自身の中で本当の意味で、わかっていますか、とうことです。

例えば、僕が大学時代に貪り読んだ本の偉人たちは、尋常ではないほどの”思い込み”と”根拠なき自信”を持っていて、彼らに共通していることは、僕らにとっての当たり前は、彼らにとっての非常識だということです。

言い換えれば、彼らにとっての当たり前は、僕らにとっての非常識に思える。

有名なエジソンの話に、電球を作る際に彼が何万回も失敗をしたというエピソードがあります。

僕らはそれを「何万回もの失敗」と捉えるけれど、彼は「電球に使えない材料を何万種類も発見した」と捉えていて、それが僕らの中にある辞書と、彼の中にある辞書では、失敗(あるいは成功)の定義が違うということだと思っています。

考え方や、スタンスだと言ってもいい。

どれだけいろんなものに触れ、かつ自分自身と向き合い、自分の中に落とし込むことができるか、という時代が大学時代なのかなと僕は思っています。

大学時代に「こいつはすごい」と思える人に出会う経験

天才とは、周りの天才たちから若くして、天才だと認められる人。

これは、僕の中にある天才の定義です。

中谷彰宏さんは、「天才とは、若くして天才に出会える人」という言葉を本で書いていました。

僕は運の良いことに、大学時代に同世代の2人の天才に出会うことができた。

1人は、同じ物理学科にいる同級生。

彼はもう、間違いなく天才です。

勉強型の秀才は論理的に物事を理解しているのに対し、天才というのは感覚的に物事を捉えています。だから、凡人にはその感覚が理解できない。

その彼は、物理学という学問を、ものすごく感覚的に捉えていて、もうこいつには敵わないな、と思わされました。

量子力学はこういうもの、線形代数はこんな感じ、行列の変換は感覚的にこうでしょ、みたいな議論をしていて、もう意味不明なんですね。

僕は彼に出会って、やっぱり僕は物理で生きていくべきではない。この土俵で勝負するのはやめよう、と思いました。

それが大学2年のとき。

そのくらいの衝撃で、彼と同じ場所で同じ4年間を過ごしたというのは、僕にとっての財産です。

彼は間違いなく10年後、世に名前が出てきている。

10年後、お互いに語り合うことができたらいいなと。僕も頑張ろうと思えるわけです。

もう1人は、同世代の起業家。

まだまだ名前が出始めてきたタイミングですが、こんなもんじゃない。

半端ない天才です。

本当に才能のある人は、すべての流れの1番深いところ、根っこを抑えるようになります。ビジネス的には、プラットホームをつくる、ということ。

グーグルがやっているものから、いずれは我々の作るサービスの方を、多くの人が使うようになる。

という意味不明なスケールの話をしていて、そしておそらくそれを実現していく。

僕も大学時代に何人も20代の起業家みたいな人に会いましたが、彼みたいな人がいると、ベンチャーを起業してIPOまでスケールさせて、とかいう話は、全く自分がすべきことではないと思えます。やりたいとも思わない。

羨ましいとか、嫉妬とか、そういうものは一切感じなくて、感覚的に、自分がすべきことではないと、スッと入ってきて理解できます。

大学時代にそんな同世代の天才たちと関わることができたことはすごい財産で、僕は僕の土俵で勝負していって、いずれまた彼らと話をすることができる存在でありたいなと思うわけです。

お互いに20代で、そしてお互い20代は、ひたむきに自分を磨く時代だと思います。

もしかしたら、来年以降はやりとりをすることもなくなるかもしれない。

でも、またいつか、語り合える日が来ることを楽しみに、僕は淡々と遠くまでいきたいと思っています。

出会いに感謝。

ありがとう。