「知的生活」のすすめ。〜学問探求と、ビジネス経験の、その先に〜

2019年1月6日大学時代

僕は中学時代から高校時代にかけて、ものすごく尖っていた時期がありました。

(今よりも、ずっと尖っていたということw)

10代の思春期の時期というのは、ものすごく多感な時期で、身の回りの世界がすごく歪んで見える。

周りにいる大人はみな嘘つきだ、くらいの感覚を持ちつつ、何者にもなれない自分自身という人間と、ひたすらに向き合おうとして、でもそれがなかなか受け入れられずに、そのギャップが周りに対する尖った態度に表出する、という時期は誰でも一時は経験するものではないでしょうか。

そして僕はその時期が、比較的長く続いた。

暗黒とまではいかないけれど、かなりグレーな時期が、僕の10代。

もちろん、ぐれて非行に走ったりとか、そういったことはなくて、逆にすごく優等生。

優等生なんだけれども、親の期待とか、周りの評価とか、10代の青年にとっては重すぎるほど、いろいろなものを背負っていて、それに潰されそうになっていたんですね。

そんな中で僕は、ちょうど高校時代の前半ごろに、「知的生活」という言葉で出会いまいした。

現代の日本を代表する智の巨匠であられる、上智大学教授である渡部昇一先生の著書との出会いを通して、こうして学問をして身を立てるという生き方に出会うことができました。

それが、僕の中でものすごい衝撃だった。

知的生活

僕は10代の頃からビジネスパーソンとして生きていきたいという想いがあったのですが、実はそのベースにあるのは、知識人として生きていきたいという、当時の自分の枠を大きく超えた野心だったんですね。

いわゆるサラリーマンという、一企業人としてのビジネスパーソンに憧れていたわけではなくて、例えば松下幸之助さんであったり、船井幸雄さんであったり、そういう後世に対して偉大な知恵を残していく人の生き方に憧れて、

そこに加えて学問人、例えば先の渡部昇一先生であったり、東大の竹内均先生であったり、最近では明治大学の齋藤孝先生であったりと、

その2つの分野の融合みたいなところに、自身の憧れを抱くようになっていました。

そしてその分野を、よりわかりやすく多くの人に伝わるように、わかりやすい言葉で多くの本を出しているのが、中谷彰宏さんであったり、千田琢哉さんであったり、という人たちなんですね。

少なくとも僕の中では。

知的生活。

この言葉は、僕の中の心を揺さぶり、魂を揺さぶりました。

僕は高校時代からこうしてブログを綴っていますが、こういったことを書くのは初めてです。

というのも、すごく堅苦しい内容と文章になってしまうことを知っていて、かつ当時の僕は、それをわかりやすい言葉で言語化することができなかった。

だからこそ、今振り返っても危ないと思えるような、例えば思考であったり言葉であったりを、自分のノートに書き綴っていました。

”知的生活”という言葉で形容される文化人たちの青春時代というのは、それは非常に暗い。もう、とてつもなく暗い。そして、とても素晴らしい。

狂ってしまいそうなほどに溢れ出てくるエネルギーを、本を読むこと、学問をすることにぶつけていて、そしてそれは目に見えないものであることが多い為、評価されずに、悶々とした青春時代を送る。

10代の僕は、当時の自分自身を彼らの青春時代に重ね、葛藤の中でも日々本を読んで、ものを書いて、ということを繰り返し、今の僕につながっています。

大学に入った頃の僕もそうで、あの頃の僕自身では、いまのように人と関わる大学生活を送る自分自身を、まったく想像できなかった。イメージすることすら、できなかった。

人生は不思議なものですね。ひょんなきっかけで、次の扉が開くわけですから。

いま、こうして僕がやっていることが、そのまま仕事になればいいのに、という思いを抱えながら、一方で、自分自身の学問の深さは、まだまだだなという想いを抱えています。

僕が書物を通して出会ってきた先人たちの勉強の深さというのは、半端ではない。

もっともっと、深いところまで掘り下げていって、彼らがいるんです。

本来僕は、大学院まで進学して、学問に没頭する道を選択しようと思っていた。社会に出るのは、そのあとでいいと。

ところが、1つの出会い、1つのきっかけから、いまに繋がっていて、

あ、就職するのも、悪くないな。

と、ピンときた今に、社会に出るという決断をしました。

学問的な探求と、一方で社会に出てビジネスを経験していくという世界と、一見すると相反するようなものですが、根っこではこの2つは繋がっていて、そして僕が目指す先では、これらは再び繋がっていると。僕はそう思っています。

この感覚というのは、わかる人にしかわからないし、むしろほとんどの人にはわからないものだと思っています。

傲慢かもしれないけれど、僕が感覚的に捉えている世界は正しくて、そしてそれは多くの人にはわからないものであろうと。否、そう簡単にわかってほしくない。

今は言葉にならないこの世界観を、説得力を持って言葉にして繋いでいく為に、僕は将来本を書くのだと。

そしていずれ、社会を経験したのちに、学問をする場に戻ってきたいなと。

なぜならば、それらは相反するものではなくて、一体化するものであると僕は考えているからです。

僕は、それを後世に残していく、ということをしたい。

まだまだ先のことではありますが、こうして言葉にして綴っていくことも、ひとつかなと。

いつも読んでくれて、ありがとう。