僕は20歳になってこのかた、一度も選挙というものに行ったことがないのだけれど、ひょんなことから選挙について考えるようなSNSを見たので、徒然なるままに書いてみようと思う。
こういうことを書くとまあ色々と言われるんだろうけれど、一個人の意見として、見てみてほしい。嫌ならスルーしてね。
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先日(2019年7月)に行われた参議院選挙の投票率がかなり低かった(50%を割った)というトピックが取り上げられていた。
この結論は「若者の選挙離れはイカン!」と血相を変えて非難するおじさんたちの議論題材に使われていたようだけれども、実際問題、20代半ばの僕から見える一若者の意見(というか景色)について、書いてみたい。
まず、よくわからん。笑
いや、みんな言うやん?よくわからんて。
そしてそれに対して「わかろうとしないことが問題だ」と叫ぶでしょ?
んー、本当にそうなのかな?とも思う。
僕は個人的には、分かろうとしていない訳ではないと思う。
少なくとも「若者は投票すべきだ!」とSNSで叫んでいる人たちと同等以上には分かっているのではないかと(勝手に)思っているのだけれど、実際に「投票に行く」ということに対して割とハードルがあるように感じている。
自分自身が選挙に行くべき明確な理由や動機付けがどうしてもできなくて、結果として足を運ぶに至っていないと言うのが正直なところ。
選択肢の質という観点と、そもそもの議論自体が胡散臭いように感じてしまうのだ。
ようは「信頼感を持って”選挙”というイベントに向き合えない」ということ。
今回の選挙でいうと、投票しない52%の側にいたことになるが、別にマジョリティサイドだからどうこうという訳ではなく、投票に行かない人には少なからずその不信感のようなものがあるんじゃないかとも思うのだ。
社会というものを、自分個人と切り離して眺めている人たちが多いというのは実感値としてかなりあるし、何よりも僕自身がそう。
こうしてものを書いたり、日々の仕事を通して社会を俯瞰的にみてはいるけれども、どうもその一つの仕組みづくりのところまでは思考が届かないのだ。
典型的な「搾取される側」の発想だな・・賢い人たちはルールを作り上げる。
閉塞感ある社会を生きる若者に向けて
お金もないけれど、就職もしたくない。
夢は正社員だけれど、今は自分一人が生きていければそれで十分。
そんな若者たちが多くなっていると聞く。
実際に周りを見渡してみると、そんな時代なのかもしれない。
実際にSNSでゆるくつながり、アプリやゲームで消費できるし、今を楽しむコンテンツは溢れている。
社会全体の閉塞感と、今を生きる若者たちの飽きっぽさと、特に何にも期待してはいないけれど、それなりに生きていければいい、という感情も大いに理解できるのだ。
閉塞感があっても、目を凝らしてみればいろんな抜け道があるという状態であれば、それはそれで健全ではないかと思っている。
学生紛争が行われていた時代も、そうかもしれない。
高度経済成長に差し掛かる前の、日本全体の閉塞感と、社会への苛立ち・閉塞感がフラストレーションとなり、行き場のない鬱憤を若者が感じていた時代である。
僕はもちろんあの時代に生きていた訳ではないけれども、どこか今の日本と状態としては似ている部分もあると思う。感情の部分の話だ。
あの時代もきっと、いろんな社会の抜け道があったと思う。
そしてその細いけれど確かな抜け道が、若者世代のガス抜きとしてうまく機能し、日本はうまく上りのエスカレーターに乗って行ったのだと思うのだ。
今の時代の若者たちにも、時代の抜け道が必要なんだと思う。
文化が寄り戻る時代が来る
いま、ちょうど僕の後輩でデニムブランドを作っているやつを応援しているんだけれど、彼と「文化」について話をしている。
その中で紹介してもらったYouTuberの方に、「in living.」(インリビング)さんという方がいる。
動画はまた彼女のチャンネルをみてもらえれば良いのだけれど、そう、この世界観だ。
その僕の後輩がこちらのブランドに師事しているらしいが、こういう「時代の移ろい」だとか「変化を楽しむ余白」だとか、そういうことに価値を感じるようにになる時代が必ずくると思う。
ようは、文化が戻るということなのだと思う。
時代が巻き戻る感覚ともとれるが、どちらかというと振り子に近いイメージ。
時代は振り子なので、片側に行き過ぎると、その反動で逆側に触れる。
時間は進んでいく中で、ひたすら振り子は揺れ動き続けていくのだ。
文化のヨリモドシが起こるというのもそうで、70年代の日本的な文化の再来であり、社会的に求める不安定かつ繊細な、でもどこか若者に明るさを秘めている、そんな時代の再来だ。
文化が価値になる時代が来る
以前にこんな記事を書いた。
価値が「機能」→「ストーリー」の時代に求められるマーケテイングの考え方
少しビジネスライクだけれど、いまは「ストーリー」が消費される時代なのだ。
どこもかしこも物語だらけ、飽和している感を感じている人もいるかもしれない。
じゃあ、次はなんの時代なのだ?という話。製品の機能でも、デザインでも、さらにストーリー(物語)でもない時代。人々は何を求めるようになるのだろうか?
そこには文化(カルチャー)に他ならないと僕は思う。
例えば、こういうものはどうだろうか。
瀬戸内海の島々全体をフィールドにした芸術祭で、そのスケールは国内でも有数の規模感である。今年2019年は第4回とのことであるが、まさに瀬戸内の「文化」をアートや芸術に昇華させ、多くの人々を巻き込んだ好例だと思う。これからの時代の先駆けとして、とても参考になると思う。
もう一つ、興味深い例がある。
宮崎県壱岐島という島全体でブランド化を行い、壱岐島でしか買えない漫画や製品という物語を、うまく文化と融合させたこれまた好例だと思う。
僕自身は一度も足を運んだことがないけれど、これからの時代の象徴なのではないかと思うし、ぜひ行ってみたい。
僕ら若者は文化の作り手であり担い手である
文化の時代。書いていて、我ながら非常に良い言葉だと思う。笑
(書き始めた時の選挙の話とはだいぶ掛け離れてしまった・・)
文化というのはいつだって、下の世代から生まれるものだ。(と思う)
そうやって時代は移り変わっていくし、時代の新陳代謝が行われていくのだ。
そして若者は文化の担い手であるという側面も持っている。時代は変わる。
新たな時代の土台となる文化を作り出し、そして一つ前の時代の文化は押し出されるという形で融合しながら形を変え、社会全体に受け入れられていく。
日本らしさというのは、そういうところにあるのではないだろうか。
「時間」という概念は、本来日本人が持っていた美徳だと思う。
例えば欧米では、新しいものよりも、何百年と受け継がれる変わらないものに価値を感じるという。
日本はどうか、現代では「刺激」や「新しさ」にどこか目を奪われていたような気もするがいかがだろうか。
でも、本来日本は時間を味方につけ、その時間の変化を味わいと評し、受け入れるという価値観があったように思う。
だからこそ欧米諸国には理解され難い日本独特の「道」(どう)という考え方があるのだ。
書道、剣道、茶道、など様々な職人芸的な「技」を「道化」することで築き上げてきた文化があったと思う。
もしかするとこれから先、そんな日本らしさなのか、あるいは新たな融合した何かが生まれてくるかもしれない。
そんな「文化の時代」に生きるのもまた、一興か。